2019年9月17日火曜日

1944年の日本人

久保田です。


3年連続で、
国際貢献学部の取材記事を書いています。

連続で担当できる仕事というのは
いろいろメリットが大きいです。

人によっては
新鮮さがなくなるって感じるかもですが、
私にとっては逆です。

一つの学部が核とするテーマに正面から向き合って
リサーチや取材を重ねていくと、
特集の企画を出すにしても
「そうか、こういう切り口がある」と
裏付けのある「新鮮な一手」を繰り出すことができます。

最初の頃が「闇雲な提案」に偏りがちなのと比べれば
リアクションに裏付けられる「新鮮な一手」は、
私のようなつくり手と、
吟味するクライアントさんと、
そしてきっと読者にも手応えをもたらすはずです。


















開学前から
国際貢献についての取材を進め、
海外の人と日本人とのコミュニケーションについて
さまざまな話を聞いてきました。
いい話も多いけれど、
世界に辛い現実が多いことも迫ってきます。
20代の学生が実際に目で見て、体感している現実として
知らされることも多いです。

世界に出ていく学生さんや
外国人を迎える学生さんと話をしていると
必ずといっていいほど出てくるのが
「私たちは、日本について、まだまだ知らないことが多すぎる」
という話題です。

ついこの間までは私も
「そうだなあ、いろいろ知るべきことがあるはずやんなあ」と
ただ、うなずいているだけでした。

それが今年に入ってふと
「私は外人さんと友人になったら、どんな話をするかしら?」と
考えるようになりました。


















1944年に日本人はなにをしていたのか、
もし話題に出たとしたら、
私はどの国の人とも、
ちゃんと会話ができないように思いました。

どんなにすぐれた翻訳機があっても、
外国語スキルが奇跡的に向上したとしても、
何を言ったら誰がどう傷つくのか、
それを知らないという事実そのものが怖いと思いました。

1945年の日本には、
その前年が、その前々年があったはずです。

いま、海外から日本人が好感をもって
受け入れられる話をたくさん知っています。
それでも、
1944年に日本人はなにをしていたのか、
知らないままじゃいけないんじゃないかなと。

国際貢献学部の取材をして、
自分自身が変わっていくこともあるんだなと
ひそかに驚いたり、感謝したりもしています。

2019年9月13日金曜日

記憶の引き出し~単行本のお手伝い~

久保田です。

いま、単行本執筆のお手伝いをしています。

これまで何冊か、
自分の名前で出したり、
編集や執筆のお手伝いをしたりしてきました。


















テーマは「仕事」が多く、
とくに今回のは、ビジネス書どまんなかです。

私がしているお仕事の大半は、
ご紹介からスタートしています。

今回の単行本は
20年ほど年賀状のやりとりだけだった
かなり以前のクライアントさんと東京で再会し、
さらに
その方からの発注ではなくて、
知人をご紹介くださって成立したのでした。

お仕事のめぐりあわせって、
なんて数奇なものなんでしょうか…

私は記憶力があまりいいほうではありません。
どちらかというと、
いっぱい考えて前に進むほうなので、
考えているうちに頭がつかれて、
大半を忘れてしまうみたいです。

なのに、
「この人と、もう一度、お仕事ができたらな」というイメージは、
何年たっても消えることがありません。

具体的に
こう言ってもらったからとか、
こんな仕事の仕方だったからとか、
そういうのは、ほとんど忘れてしまってるんです。

でもその人の名前を見ると、
「この人と、もう一度、お仕事ができたらな」と
必ず引き出しがあきます。
いったい、どこに入っているのだろうか。

取材ノートも同じで、
数年、数十年たった昔のノートを見ても、
取材したときのことを思い出すことが大半です。
はじめての取材から30年以上たっているので、
すでにアタマは満杯だと思うんですが、
見たとたんに、大切なことだけは思い出します。
自分にとって大切なイメージだけは、
どこかにしまってあるんでしょうね。

単行本だけでなく
いろんなお手伝いをしています。
ウェブが多いけど、パンフレットもあります。

私が書いた記事を読んだ人は、
読んだことをすぐに忘れてしまうでしょうけど、
大学に入ったり、就職したり、
会社を創業してずいぶん経ってから、
「あのとき読んだの、きっかけだったなあ」と
思い返してもらっているかもしれないですよね。

読んだ人の記憶に
大切にしまってもらえるかどうか、
単行本の仕事はとても長丁場だけど、
そんな気持ちを持ち続けたまま
取り組んでいきたいと思っています。



2019年9月7日土曜日

「こくご」が泣いている

久保田です。
このあいだ、目がテンになりました。
「国語」から「文学」が切り離されるという話を読んだからです。


















私は大学で「日本語のスキル6」という授業を担当しています。
「こくご」とは何か、いつも考えています。
いつも身構えています。
小学1年生の子どもにも、大学生にも、きちんと答える必要があると思っています。
教えているかぎりは、それが責任です。

どんな勉強も、かならず生きることにつながっていますが、
なかでも
「こくご=(にほんじんの)ことば」は生死を分ける勉強です。

「死にそうなダメージを受けるようなけんかをしないために必要な勉強」です。

親子の関係は、うまくいっているでしょうか。
どうして、よく知っているはずの「日本語」が伝わらなくて、
けんかになるんでしょう。
夫婦はどうですか。
上司と部下は。
先生と生徒は。
ネットを見ても、文春を読んでいても、
「日本語」が伝わらなくて、死にそうなダメージを受けている話でいっぱいです。

漢字や文法を、知っているに越したことはないですが、
多少知らなくても、死にそうなダメージは受けないと思います。

コミュニケーションでもっとも意識しなければならないのは、
「ほかの人の心に分け入っていく」という点だと思います。
じぶんのことばが、
「ほかの人の心に分け入って、たまに、ささってしまうこともある」点だと思います。

ほとんどの人は、たくさんの人生を経験できません。
親をなくした人、
病気で苦しんでいる人、
自分がいやで消えてしまいたい人、
自分がこの世で一番えらいと思っている人、
誰かに仕返しをしたいと思っている人、
この世には、いろんな人がいて、
いろんな人とコミュニケーションをすることになりますが、
その、いろんな人たちの心を理解して
日本語を使うのはなかなか困難です。

文学を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いても、
だからといって、
どのくらいコミュニケーションスキルが上がるのか、
私にはわかりません。

でも、たくさんの人は実際、
文学を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いて、泣いたり、心が揺さぶられたりします。
自分のことじゃないのに。
自分がした経験じゃないのに、心に分け入られてしまいます。

たぶん絵本を読んでもらったりしているうちに、
自分がしているすべてのこと、
使うことばが、している行動が、
「ほかの人の心に分け入っていく」のだと
学校で教わる前に、子どもたちは知るのだと思います。


















「こくご=(にほんじんの)ことば」は生死を分ける勉強です。
多くの子どもは、そして大人は、
文学から、そして文学とつながるさまざまな表現から、
生死を分ける勉強をしているはずです。

コミュニケーションは、生死を分けるいとなみです。
「国語」から「文学」を切り取ってしまうと、
コミュニケーションから「こころ」を切り取ってしまうかもしれない。
こころないことばを、増やしちゃだめなんじゃないか、
そんなことを考えました。

2019年9月6日金曜日

レモンの木のはなし

久保田です。
夏がやっと終わりました。
これは、今年の夏のはなしです。


















私「四季成りレモンっていうから、いっつも食べられると思ってたのに、ぜんぜん実らないなあ」

🍋レモンの木「…」

私「まあ、この大きさで、葉っぱも数十枚じゃ、無理かあ」

🍋「…」

私「あれっ、なんなんか? レモンの木の下に、黒い粒々がいっぱい、いつのまに??」

🍋「…」

私「まさか、えっ、あっ、あーあ、なにこれ、でっかい幼虫、いつのまに?? この黒いのはフン??」

🍋「…」


















私「なんでえ? レモンの鉢はチョウチョが来ない2階に持ってあがったのに、あーあー、でっかい」

🍋「…」

私「こんなに大きくなったのに、今日みたいな豪雨のなか、捨てんの、この子」

🍋「…」

私「しゃあないよね…このまんまやと、あんたが丸坊主になるもんね」

🍋「丸坊主になるやろな」

私「この大きさやからな…葉っぱ、食い尽くすな」

🍋「この子がサナギになるまで、もたへんかもな」

私「あんたが丸坊主になって、しかも、この子もサナギになられへんかもってこと?」

🍋「可能性はあるな」

私「…」

🍋「この子が食わなくても、そろそろ葉っぱは散るけどな」

私「…」

🍋「もう今かて、この子が食べたいような新鮮な葉っぱは少ないんやで」

私「サナギになるのが先か、葉っぱがなくなるのが先か」

🍋「うん」

私「…」

🍋「よう捨てへんのやろ?」

私「…うん」

数日後















私「ぎゃー!」

🍋「サナギになったで」

私「よかった、丸坊主になる前に」

🍋「ほっとしたわ」

私「チョウチョになれるかな」

🍋「さあな、ちいちゃいサナギやで」

私「羽化でけへんやつもいるらしい」

🍋「そら…しゃあないな…」


数日後

私「そろそろや、どうしよう」

🍋「どうしようって」

私「外に出したら、太陽がきつすぎる」

🍋「葉っぱが少なすぎるからなあ。もろ直射日光や」

私「でも、家のなかで羽化したら」

🍋「虫とり網やな」

私「太陽がきつい間は入れて、マシになったら出して…」

🍋「あんた、虫のことになったら、こまめやねんな」

私「出しっぱなしにしたら、別のチョウチョがくるかもしれへんねんで」

🍋「まーな。もう無理やで。養われへんわ」


数日後

🍋「羽化したで」

私「よかった、よかったわ、無事、チョウチョになって」

🍋「あんな、サナギのなかで、いっぺんドロドロになって、
  チョウチョのかたちになるらしいで」

私「…」

🍋「信じられへんな。あんなちっちゃなサナギのなかで」

私「…」

🍋「なかなか、飛ばへんな」

私「いいよ、ゆっくり飛べば」

🍋「きれいな羽、してるな」



数日後


私「チョウチョが飛んでる」

🍋「…」

私「網戸があるのに、こっちに来ようとしてる」

🍋「…」

私「あの子が、卵を産みに帰ってきたんかな?」

🍋「もう、かんべんして」

私「なかなか実が成らへんから、鉢植えやめて庭に植えようと思ってたんやけど、
    これじゃ、無理かなあ」